ものの価値がわからないことで増幅するストレス

良いものの価値がわからないことで、ストレスを感じることが多い。

例えば外食について、あそこの料理は美味しいとか、あれはいまいちだったとか、よく人は評価をしている。

もちろん僕も、高いお金を払って食べる料理に特別感があり、受けるサービスも一段上で、雰囲気も上等だということぐらいはよくわかる。

でも、それを味わうのに払う対価を考えると、それに本当に価値があるのかと常に割り切れない思いを感じる方だ。

おそらく僕ならば、その半分以下(時には十分の一以下)の値段で食べるチェーン店のファストフードでも同じ満足度を感じる。

満足度に対する期待値とかハードルがかなり低いので、ある一定レベルに達すれば、いくら払う金額が増えても、満足度が大幅に上がることはない。

だったらそれはそれで、自分で満足しておけばいいと言う話なのだが、問題は社会人としていろいろな人と付き合って、円滑なコミュニケーションを取ろうと思ったときに生じる。

そのようなレベルの低い満足感で、他人と話をしていたら、それこそ会話が成立しないというような「話にならない」状況が生じる。

あそこの店が美味しいとか、あの食材がいい、という会話がされているところに、松屋で十分ですとか、そんな高い所には行ったことがありませんとか、そういうレベルのことしか言えないと、全く相手にならない。

それが外食だけにとどまらない。

例えば僕は車に乗らないから、車の話には全くついていけない。どのデザインがいいとか、どのエンジンがいいとか、そういう判断基準を全く持たない。

時計にも興味がない。何十万円の時計の良さがわからない。だから時計の何がいいとかあれがいいとか言う話にはまったくついていけない。

芸能ニュースにしてもそうだ。

あのドラマが良かったとか、あの俳優がどうだということに興味がなく、芸能人についての知識が恐ろしく少ない。

最近の例でいうと、東京オリンピックにも興味がない。

もちろん世界有数のアスリートの競技を見ることは、価値の高いことだとは思う。

しかし、天文学的な倍率の抽選、当日の大混雑、予定の調整といったあらゆる障害を乗り越えてそれを手に入れたいという欲望はない。

それならば、高校野球の地方大会とか、草野球を見ているだけでも僕はいい。

そんなことで、いろんなことに対して、世の中の人の価値観と僕の価値観が合わない。そのことがストレスだし、本来はそうやって人と分かり合えることで希薄化するはずのストレスが、全く解消されずにいる。

誰か助けてください。

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